この世で最も恐ろしいのは正体不明ということだ。昔の人は、恐怖の対象で 
あって、しかし何だかわからないモノに、「もののけ」と名を与えて安心感を 
得た。 
 心を占める、心を縛る、この気持ちを何と呼べばいい。もやもやと不定形で、 
熱くて痛くて、苦しくて切なくて、だけど手放せない。手放したくない。この 
気持ちを何と呼べばいい? 
「よ、お待たせ」 
 遊び仲間と待ち合わせをしていたかのように、気楽に手を挙げ軽く声を掛け 
る、“紅蓮の刃”を“黒い天使”は振り返った。 
「……予定より、1分25秒、……遅い」 
「途中で襲撃されたんだ、というのは言い訳にならないかな?」 
 肩をすくめてみせる、その上着の袖にざっくりと斬られた跡。 
「キュマイラ系のオーヴァード、もといジャームが3体。とどめを刺して、死 
亡も確認した。さてこれを、君はどう判断する?」 
「……成功確率、67%に上昇。……31分11秒後に状況を開始する」 
「やれやれ、君がいて、僕がいて、3体もジャームを排除して、それでなお成 
功確率67%かい? 分の悪い賭だね?」 
 “黒い天使”は無言で“紅蓮の刃”から視線を外した。 
 中川河川敷。土手の中腹に座る制服少女の隣に、派手なケンカでもした直後 
なのか、大きく破れた制服姿の少年が座る。面立ちの美しい少女は、怒ってで 
もいるのだろう無表情で、少年の方は、まるで少女をなだめてでもいるかのよ 
うな笑みを小さく浮かべている。この光景を、事情を知らぬ大人が見たら、甘 
酸っぱい青春の一コマであろうと微笑ましく思ったに違いない。 
 夕方。状況開始予定時刻には、もうとっぷりと日が暮れているはずだ。 
 彼らの背後、土手の上の道路を、たまーに自動車が通っていく。 
「この“シナリオ”が終わったら、また出向するんだって?」 
 “紅蓮の刃”の問いかけに、“黒い天使”は無言をもって応える。 
「その代わり、僕がここに居残るんだってさ。僕の方こそ一時出向だったはず 
なんだけどねぇ?」 
 言いながら、川面に石を投げる。ぽちゃん、と音がする。意外と深い音。 
「代わってあげようか」 
 その台詞に、“黒い天使”は一瞬だけ“紅蓮の刃”を見返した。 
「同じ学校にUGN関係のオーヴァードが二人、てのはいいとして、その両方 
がガチガチの近接戦闘系じゃ相性が悪い。前衛後衛、役割分担ができる方が有 
利だ、何かと。今回、僕が君の援護に呼ばれた理由と同じで、ね。ならその旨 
を上申すれば、“上”も考え直すだろ?」 
「……もう、決まったことだから」 
「支部長レベルの決定さ、鶴の一声で何とでもなる。君は知らないかい? 局 
長ってさ、割とそーゆー色恋沙汰系で人を動かすのって大好きなんだぜ?」 
 日本支部監査部局長“リヴァイアサン”。 
「……お陰で、嫌な“シナリオ”を振られた」 
 時に軽薄なほど、いつも陽気な“紅蓮の刃”。ノイマンであり彼の幼馴染み 
でもある“黒い天使”がようやく気づけたぐらい僅かに、苦く表情を変えた。 
それはいっそ憎悪に近い、嫌悪の表情。 
 “黒い天使”は参考までに報告書で読んだだけの事件、謎の殺人鬼“パフィ 
オペディルム”の一件。確かに、彼には酷な任務であったろうと彼女は思う。 
『日常』に溶け込むために、意図的に作ったペルソナを被る、被る必要がある 
ほど『非日常』性の高い自分と違い、素顔のまま『日常』を呼吸している“紅 
蓮の刃”には。 
 “黒い天使”は、しかしそのことには触れずにおいた。 
「……能力的な相性の問題と、色恋沙汰で人を動かすという話は、文脈が合わ 
ない」 
「ああ、ゴメン。論理的に話をするのって苦手でさ。ええと、だから、能力的 
な相性っていうのは大義名分の方で、色恋沙汰ってのは実質の方。OK?」 
「……何故、色恋沙汰が絡んでくるの?」 
「君の恋情に配慮して、という意味さ」 
「……恋情?」 
「慕情でもいいけど。そういうことなんだろう?」 
 言いながら投げた石は、1度、2度、3度と水面を切って、沈んだ。 
「……私には、わからない」 
「ノイマンでも、どんな優秀なオーヴァードでも、計算できないものはある。 
誰が言ってたんだっけな、こないだ会ったどっかの支部長だったかな、とにか 
くそういうわけだから、局長には1回ぐらい無理を言って通してもらえる可能 
性が高いと思うんだ。ど? この話?」 
 明るく尋ねてくる“紅蓮の刃”を真っ直ぐに見返して、“黒い天使”はきっ 
ぱりと首を横に振った。 
「そっか。ならいいんだ別に」 
 二人は同時に視線を外す。彼は空へ。彼女は水面へ。同じ陽光を受けて、し 
かし異なる色合いを映す景色へ。 
「あの子、可愛いよなぁ」 
 唐突に話題が変わった。 
「名前、何てんだっけ? まだよく知らないけど、うん、可愛い可愛い実に可 
愛い。クラス委員長ともなれば、転入した僕の世話も甲斐甲斐しく焼いてくれ 
るだろうし、そうしたら簡単に仲も深まるよなぁ。……“不確定な切り札”が 
割り込めないくらいに、さ」 
 弾かれたように“黒い天使”が顔を上げた。 
「……何を、するつもり?」 
「自由恋愛さ、ただの。チルドレンだからって、そこまで制限される謂れはな 
いしねぇ。人の領域にとどまるために、人のぬくもりを求める。オーヴァード 
として、正しい姿勢さ」 
「……彼を、傷つけないで」 
 少女の無表情な仮面にヒビが入る。そこから垣間見えるのは、怒り。自分の 
ためでなく、誰かのための怒り。 
 その怒りを煽るように“紅蓮の刃”は薄っぺらい笑顔を作った。 
「へぇ? 僕が恋愛すると、どうしてあいつが傷つくことになるんだい? 僕 
はノイマンじゃないから、よくわからないなぁ?」 
 噛んで含めるように、“黒い天使”は言葉を紡ぐ。 
「……彼女は、彼の想い人だから」 
「単なるお隣さんって聞いたぜ? あいつ自身の口から、さ」 
「……“紅蓮”。……貴方は、そんな人じゃ、ない」 
「僕の大事なお姫様のために、邪魔な石ころを取り除いてあげようっていうん 
だよ。お姫様は石ころが怖くて、前にも進めないようだからね」 
「……会話に、無意味な比喩を混ぜないで」 
 ぶつかりあう視線。一触即発の緊張。 
 ピピッ、ピピッ、と電子音。おや、と“紅蓮の刃”は自分のケータイを取り 
出した。液晶表示を確認し、……ニッと楽しげに笑う。 
「“不確定な切り札”が来る」 
「……!?」 
「何故、って顔だね? そりゃ勿論、誰かさんが故意に情報をリークしたから 
さ。今回の“シナリオ”と、君の弾き出した成功確率をね。さてこれを、君は 
どう判断する?」 
「……成功確率、92%に上昇。……13分23秒後に状況を開始する」 
 その声は、怒っているのか、泣く寸前なのか、快哉を叫びたいのか、複雑な 
ものだった。 
「何だかんだ言って、根はいい奴だよな、あいつ。あんなトーヘンボクに、君 
が勿体ないって気もするけど、それと同じくらい、君が惹かれたわけも、僕に 
はわかるような気がするよ」 
 “黒い天使”は頷く。小さく、自分にも気付かないくらい小さく。 
 だけど声に出したのは、とても事務的な内容だった。 
「……メンバーが3人に増えたのなら。……一人は囮とすべき」 
「うん、それがいいね。てか、囮役が作れるから成功確率がガーンと上がった 
んだろ?」 
「……それも、あるけれど。……彼は、この支部の切り札的存在だから」 
「彼は『君の切り札的存在』さ」 
 彼女の頭に掌を置いて。強くくしゃくしゃと撫でて。 
「無理すんなよ? 無理なんかしてないと思い込むなよ? 僕が言いたいのは、 
要するに、そういうこと」 
 暫し、沈黙が落ちて。 
「……“紅蓮”」 
「何?」 
「……さっきの、話。……この“シナリオ”が無事に終わったら、局長に……」 
 おずおずと申し出る少女に、少年は嬉しげに破顔してみせた。 
 “紅蓮の刃”は一挙動で立ち上がり、 
「んじゃ先行してくるわ。囮役は僕がいいだろう? イリーガルの彼に、そこ 
まで任せるわけにはいかない」 
「……5分6秒後に、ターゲットと接触。……一撃で、決めて」 
 “黒い天使”の声を背中で受け、了解、と言い残して河川敷を走っていった。 
まるで彼が夕日の残光を連れ去ったかのように、辺りに闇が降りてくる。 
 残された少女も立ち上がった。 
 心を占める、心を縛る、この気持ちを何と呼べばいい。もやもやと不定形で、 
熱くて痛くて、苦しくて切なくて、だけど手放せない。手放したくない。この 
気持ちを何と呼べばいい? 
『君の恋情に配慮して、という意味さ』 
 そうか。そういうことなのか。 
 何が変わったわけでもない。それでどうなるものでもない。 
 だけど、安心した。その気持ちに、名前が付いたから。 
 名付けて、見つめて、向かい合ったから。 
「……ありがとう」 
 姿のない背中に、呟くように礼を言う。 
 土手を駆け下りてくる足音。振り返って、恋しい少年に向けて、彼女は小さ 
く微笑みを浮かべた。薄闇の支配する空間、彼には見えないとわかった上で、 
彼女は笑顔を浮かべたのだった。 
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